Mishina’s Eye Vol.6

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2014年7月27日。37回目の鈴鹿の夏が終わりました。レースリポートなどはこのサイトのページで是非ご一読ください。現場から発信された生々しい記録です。

みなさんはまだ8耐の余韻から冷めやらぬって感じでしょうねぇ。私もそうです。参加チームに係わった人、ライダー、プレス、オフィシャル、そして観戦された多くのファンのみなさんの数だけドラマがあったと思います。でもそのドラマ、まだまだ完結しないでしょ。私は毎年思ってます。エンディングの花火は来年に向けてのスタート合図だと。 さて私が鈴鹿8耐を初めて見たのは「第2回インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース」。世界耐久選手権になる前年の1979年のこと。しゃべり屋を目指していた学生で、その年の5月に初めてモータースポーツに触れたばかりの右も左もわからない若造だった。6月の全日本ロードレースを見て2輪のレースって凄いって体感していたので、ワクワクしながら鈴鹿サーキットへ出かけたのを覚えている。

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グランドスタンドでル・マン式スタートを初めて目の当たりにした。静寂の中、日章旗が振り下ろされると同時にコースを横切ってマシンに駆け寄る。1,000cc 4サイクルの号砲、2サイクルレーサーマシンの悲鳴にも似た甲高いエキゾーストノートがスタンドの屋根に反射して響き渡る。グリッドを離れ1コーナーに向かったマシンを見送り、さてこの後8時間どうしたものかと考えてしまった。時間もあるしぐるっと回ってみルことにした。すぐにポールポジションからスタートしたモリワキのグレーム・クロスビーが独走。って言っても予選で2位に2秒もの差をつけていたから当たり前だよなぁと思いながらグランドスタンドを後にした。

コース外側の斜面の上にある通路を1コーナー方向に歩いて行った。時折風に乗って場内放送が聞こえるが蝉の鳴き声とエキゾーストノートがかき消す。当時の1〜3コーナーは徐々に半径が小さくなるカーブが連なり、複合コーナーと呼ばれていた。当時屋根付きスタンドがあるのはグランドスタンドだけ。他のほとんどは土手の斜面が観客席。3コーナーの土手の上にぽつんと売店とトイレがあって、汗だくになりながら土手の上の通路を歩いていくと喉がカラカラに乾いている。当然飲み物を買って、土手に腰を下ろし飲みながら観戦。独走しているはずのクロスビーがいない。もう順位なんて分からなかった。暫くコースを疾走するマシン達を3コーナーの土手で眺めてから逆バンクへ移動。逆バンク外側の斜面には大きな看板があった。後に黄色いNIKON看板になったが、当時は確か黒地にゴールドのJPS(John Player Special:タバコ)看板だった。逆バンクって外側が低くなってるんじゃなくフラットなコーナーだと知った。高速でこのコーナーにやってくると、まるで外側に向かってコースが下がっているように錯覚するらしい。それで逆バンクって名前。なるほどなぁと生意気にも名前を付けた人はエライと思ってしまった。そういえば逆バンク手前のS字でヤマハのレーサーが転倒して燃えた。どうやらその時トップにいたらしい。ヤマハファクトリーライダー、世界の金谷秀夫と弟子で後輩の藤本泰東(やすあき)のチーム・カナヤ。20数年後に「藤本、このやろ〜、どついてやろうと行ったら気を失って伸びてるんで、どつくことも怒ることもできんかった」と金谷さんに当時のこと聞きました。そのまた数年後、藤本さんにこの話したら「どつかれて、怒られるんだったら、気を失ったふりしといたろって目つぶってた」って嘘か本当か笑いながら話してくれた。 1979corsemap 逆バンクの先ダンロップブリッジには行けなくて、来た道をてくてくと逆戻り。やはり移動中、場内放送は遠くのスピーカーから風に乗って時折聞こえてくるだけ。レースの展開がどうなってるかなんて、さっぱり分からなかった。 再びグランドスタンドに腰を下ろし、目の前のデンソープラグ・リーダーボードに掛けられた番号札(ゼッケン番号)を見て大体の順位を確認。自動計測もコンピューターもない時代。周回や順位のチェック、リーダーボードに番号札をかけるのも全て人の手によって行われていた。そういえばこの1979年にサーキットクィーン(当時はレースクィーンって呼んでた)が誕生して、番号札かけもやっていたかも。 さぁ今度は西コースに向かってグランドスタンドを離れ歩き出した。まだシケインの無い最終コーナー外側の通路を時折、金網越しにコースを見ながら進んでいくと130Rあたりが見えるところがあった。ここは斜面ではなくコースから少し離れた場所。少し大きめのラジカセから音楽を最大ボリュームで鳴らし、海水パンツで踊っているグループがいたり、ビニールシートを広げて木陰でおにぎり食べてる人たちがいたり、思い思いに楽しんでいた。約1.2km歩いてヘアピンスタンドに到着。ここまで歩いてくる途中もほとんど場内放送聞こえずでレースがどうなっているのか分からない。やっぱり売店があって、やっぱり飲み物買ってヘアピンスタンドに腰かけて飲みながら観戦。どうやらホンダがトップらしい。さらに通路を進んでいくとスプーンカーブの入口あたりで行き止まり。フェンスにへばりついてみている人が結構いた。へばりつく隙間があまりなかったのでヘアピンまで戻り、今度は立ち上がりの方からフェンス越しに見た。そうしているうちに陽もだいぶ傾きだしたので、グランドスタンドへ向けて歩き出した。これくらいの時間になると同じように戻る人たちで細い通路は結構人口が多くなった。グランドスタンドに戻り、日も暮れ、ライトオンのサイン。日中の太陽に痛めつけられた肌がヒリヒリするが、1コーナーのちょっと先の白子の海から吹いてくる風が、火照った体を気持ち和らげてくれる。

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結局レースはホンダ・オーストラリアのトニー・ハットン/マイク・コール組が優勝。2位にホンダ・ブリテンのロン・ハスラム/アレックス・ジョージ組が同周回の197周でチェッカーを受けた。3位は角谷新二/浅海敏夫組で10周遅れの187周だった。ボーッと花火を眺めながら、良くわからない興奮と充実感、そして疲労感。コースを疾走するライダーたちを見つめる時間より、歩いている時間の方が長かったような気がする。ライダーやチーム、コース上で起こったドラマはよく分からなかったけど、レースをほとんど知らない私でも鈴鹿8耐の空気を胸いっぱい吸い込んで、なんだか自分も8耐に参加したような気になっていたことは確かだ。

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翌1980年。鈴鹿8耐は世界選手権の一戦として組み込まれた。そして私は鈴鹿サーキット場内放送の末席に加えてもらっていた。8耐ウィークが始まり、先輩からピットに行って取材してこいって言われた。8耐のピット、誰もが忙しく動き回っている。何をどう取材してくれば良いのだろう・・・。公式プログラムは隅から隅まで読み通した。でもわからない。メモ用紙と鉛筆をもってパドックに降りていき、ピット裏を行ったり来たり。ピット内を覗くがどこがどのチームかも良くわからない。第1回大会はアメリカで活躍していたヨシムラが打倒ホンダRCBをかかげて、耐久とは違ったスプリントの戦い方で勝利した。第2回大会はホンダが層の厚さを見せ優勝。世界選手権となった第3回大会は連覇を狙うホンダにリベンジを狙うヨシムラ。世界選手権ということで各メーカーの耐久チームやスプリンターがやってきていた。英語出来ないし、どうしよう・・・。えいっ、ままよと飛び込んだ、私の取材第1号がヨシムラピットだった。ピットの一つ一つは今と比べてとても小さい。ピット内も高さ1mくらいの壁があって、直接ピットからピットロードにマシンを出すことができない。私が取材に行った時は走行中でピット内にマシンは無く、ピット内の1コーナー寄りの最前部に脚立を立て、その上にストップウォッチを握り、そして耳の後ろに掌をメガホンのように当てながらストレートを通過するマシンサウンドを聴いている浅黒く日焼けした人が座っていた。 POPだ。私は脚立の下まで歩み寄り、恐る恐るPOPを見上げて声をかけた。「すみません。お話を聞かせてください。」なんという声のかけ方だろう。初対面の若造のいきなり話を聞かせてくれなんて失礼な声掛けにも怒ることなく、何と脚立を降りてきてくれた。

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「どこのプレスだ?」とPOP。いいえ場内放送ですと答えると POPは「オーガナイザーのだな。で私に何を聞きたいのですか?」 緊張していた私はPOPの前で直立不動、メモなんて取れるわけがない。 余裕もなく、また何を聞いたか今となっては覚えていない。でも、厳しい表情の中にも、ときおり笑顔で優しく丁寧に私に話をしてくれたことを覚えている。私にはとても長い時間POPが付き合ってくれたように感じたが、実際には5分ほどだったと思う。 「じゃぁ、これでいいか?」と私に聞くと再び脚立に上りコースに目をやっていた。「ありがとうございました」深々とおじぎをして私はピットを離れた。ゴッドハンドと呼ばれるPOPは頑固で職人気質の怖い人と思い込んでいた自分が恥ずかしかったなぁ。私のヨシムラとの出会いはこの時です。POPはそんな私のことを覚えていてくれて翌年お会いした時も「元気か?」って声をかけてくれた。それ以来ヨシムラは、身近に感じる、気にしているチームだ。

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第37回大会の今年、私は初めて仕事抜きで鈴鹿8耐に行った。ここ数年ハルナモータースポーツランドの青木宣篤杯ミニバイクレースで親交のある青木宣篤率いるトレックスポーツのホスピタリティにお邪魔することが多く、比較的近い場所でヨシムラ・レジェンドチームに接することができた。仕事で来ていると立ち入れない場所。今までライダーやメカニック達を裏で支える人たちの存在は知ってはいた。でも注目されるのはライダーや監督、メカニック。決して表舞台に登場しないバックヤードスタッフもそれぞれ心をひとつにして一丸となって戦っている姿を目の当たりにした。トラブルなく無事に帰ってきて欲しい。悲喜交々、いろんな葛藤や思いが詰まったもうひとつのドラマを見せてもらった。 パドックを歩いているとき久しぶりにPOPの奥さんの直江さんにお会いできた。御年89歳。「もうじき90歳のおばあちゃんですよ」と素敵な笑顔でパドックを歩きながらお話ししていただいた。来年は是非、吉村直江さん卒寿記念・リベンジ・ザ・レジェンドチームってやってくれないかなぁと花火を見ながら思うのだった。あれ?数え年だっけ?だとしたら今年だったか?

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