“勝ち”にこだわるが故の英断。加賀山就臣、全日本ロードレースからの引退
突然のステージ
2022年3月25日、東京モーターサイクルショーのスズキブースにて加賀山就臣のステージが開催された。新型マシンの紹介でも、MotoGPやEWCへの参戦体制発表でもない。加賀山ひとりだけのステージ。それは全日本ロードレースからの引退発表であった。「右も左も分からない生意気な小僧の時代からずっとサポートしてくれたスズキに感謝の気持ちを込めてここで発表したかった」
スズキには感謝しかない
加賀山は1990年から32年間、スズキ一筋でレース活動を続けてきた。スズキワークスから全日本ロードに参戦、2003年からは日本人として初めてブリティッシュスーパーバイク選手権(BSB)にフル参戦。2005年からはスーパーバイク世界選手権に参戦。その全てがスズキだ。
「32年間ライダーとして育ててくれたことにすごく感謝しています。真っ先にクビになるようなチャランポランな人間だった(笑)。バイクに乗ればすぐぶっ壊すし、人一倍ケガも多くて、それでもずっと支えてくれて、海外にも行かせてくれて。そのおかげで鈴鹿8耐や世界戦で勝てるようになりました。スズキの方々が諦めていたら自分はここにいません。」
ファンがいたから苦しいリハビリにも耐えられた
「それとファンの人たちの存在です。応援してくれる人たちがいてくれたから怪我からの復活もできました。待っている人たちがいないとモチベーション上がらないからね。ファンの人たちがいたから乗り越えられたことなのでそこには本当に感謝しかありません」
スズキとファンの方への感謝の気持ちを伝えたい、その場を提供してほしい、とスズキにお願いしたところ二つ返事で了承を得た。この辺りのスジの通し方はやはり加賀山就臣である。
“勝ち“にこだわりたい
レーシングライダーなら誰でも「勝つこと」を目標に走っている。加賀山も同じだ。だがここ数年なかなか手に入らない状態が続いていた。その理由は加賀山自身が知っている。「身体能力の低下」。
長年の経験と技術で加賀山の“技”として魅せてきた。経験値が上がる部分と、フィジカルが下がる部分とバランスを取ってきたが、トレーニングだけではカバーしきれなくなってきたと言う。
「3年4年前だったら、ワンチャンスがあれば勝てたし、勝ちがギリギリ目の前にいたと思う。だけどここ数年はワンチャンスがあっても表彰台が精一杯だった。」
それがどうしても納得がかなかった。
ライダーとして勝ちを狙うべくして闘っていたが、表彰台狙いとか、4位5位狙いでレースになるのではモチベーションが上がらなくなった。2019年には自らがヨシムラにレンタル移籍。勝てる体制・マシンを手に入れられると考えたからだ。それでも勝利を手にすることはできなかった。
「“それでもいいじゃん”“表彰台に登るだけでも立派じゃん”という人たちもいるけど、自分は“勝ち”にこだわりたいのです」
身体の痛みで目が覚める朝もあった
“鉄人“と言われている加賀山。どんな怪我でも復活するその体力・気力の強さからつけられたあだ名だ。2003年、BSBカドウェルパークのレースで転倒、骨盤複雑骨折・脊椎圧迫・内臓破裂・尿管損傷に加え、感染症で体が痙攣し始めた。医者に帰国があと1日遅かったら命がなかったといわれたほどの大怪我を負った。
過去に大きな怪我を何回もしていることも加賀山を悩ませる一因となった。
「大きな怪我をしているせいで体の痛みは元々ありました。それを我慢しながらやりくりしていましたが、リカバリーするほどのトレーニングができなくなりました。身体の痛みで朝起き上がれない、ということもよくあります。」
ライダーを支える側として勝ちを狙いに行くのもレース
時を同じくしてヨシムラから“一緒にやらないか”との声がかかった。ヨシムラも全日本ロードレースに復帰したい。EWCのマシン開発を担っている渡辺一樹もフル参戦したいと加賀山に相談していた。
「世界チャンピオンを獲ったヨシムラの車両、渡辺一樹というライダー、我々Team KAGAYAMAの経験値があれば、勝ちを狙える環境が作れる、と思いました。」
「ライダーを支える側として勝ちを狙いに行くのもレースだ、と考えました」
Team KAGAYAMAのチームオーナー、監督として浦本修充、長谷川聖などの若手ライダーの育成にも力を注いできた。但、レーシングライダーである以上自分の技や手の内を100%見せられなかった。だが今後は監督とし自分が持っている全てを教えられるという。
負けないことは教えられるがチャンピオンの獲り方は教えられない
渡辺も加賀山から教わることの意義・価値を十分に理解している。たが加賀山はチャンピオンの獲り方は教えられないという。
「自分はチャンピオンを獲ったことがない。原田(哲也)さんとか大ちゃん(加藤大治郎さん)などの天才的なスピードがなかったから、コツコツ続けるタイプとして頑張ってきた。それは財産でもあると思っている。
そして、いろいろ遠回りや失敗をいっぱいしてきたので、こういうことをするとこんなミスに繋がる、ということは伝えられる。失敗を極力少なくさせてあげることはできると思う。」
ライダーとしてのポテンシャルの高い渡辺だから加賀山の教えはすぐに役立つような気がする。
日本のレース界を盛り上げたい
加賀山はバイクレースを知ってもらうために積極的にサーキットの外に出てPR活動を行なった。史上初となるレーシングバイクで野球場内に登場、ツナギ姿のままでプロ野球の始球式を務めた。また、“レーシングライダーだからこそ伝えられる交通安全がある”と横浜元町の「横浜元町安全安心パレード」に毎年参加。今年で11回目となる。
さらにPR活動を強化するために、昨年『MRS (Moto riders support of japan)』という一般社団法人を立ち上げた。加賀山が代表理事長を努める。
コロナ禍も要因のひとつだが、今バイクは売れてバイク人口も増えている。だが、世の中が元に戻ったらバイクを降りる人が増えることを加賀山は危惧している。
「彼らはただ単に通勤通学で使っているだけで、本当のバイク好きじゃない。彼らが本当のバイク好きにするために何かをしなくてはならない。例えば仲間作りとか、“聖地”、いわゆるツーリングする目的地を作るとか、そういう活動が必要」
交通安全教育、オートバイの盗難問題、バイクの駐車場問題などの解決に向けて色々な業界の人たちが集まって知恵を出し合い行動する団体がMRSだという。
「自分が一番やりたいのは、ストリートと、モータースポーツの間にある大きな壁を取り除くこと。レースをもっと身近に感じてほしい、そのためのイベントやバイクのカスタム、スクールなど、きっかけを作ってあげたいと考えています。」
最近の加賀山のFacebookを見ればわかると思う。一般の方と一緒に様々なツーリングを行なっている。ミーティングやバイクのカスタムを通じて仲間同士の交流を深めている。5月15日に筑波サーキットで開催される「Taste Of Tsukuba」に“スズキ 隼”を鉄フレームでリメイクして参戦を表明。「鐵隼(テツブサ)」と銘打ったプロジェクトとして進行している。これもサーキットとストリートの垣根をなくす活動の一環だ。当日はオーナーによる「ハヤブサミーティング」を開催。また参加者専用の駐車場も用意する。
自分達が乗っているバイクがサーキットを走る、その姿を見てカッコイイと感じる。”自分ゴト“として共感を得ることでストリートとモータースポーツの接点が生まれる。
全日本ロードレース開幕戦で引退セレモニーが開催された。伊藤真一監督、吉川和多留監督と3人でチーム運営についてのトークショーステージを実施。無事に終了、と思ったところでサプライズ。加賀山の象徴ナンバーである「71」の風船と共に、亀谷長純、藤原克昭、武田雄一をはじめとする約30名の全日本ライダー、さらに四輪ドライバーの本山哲氏も登壇。代表して中須賀克行から大きな花束が贈られた。これには加賀山も男泣き。「泣いていない!」と本人は言うが誰が見ても美しい涙であった。
ステージ下には奥様や娘さんの姿もあった。昨年、親族だけに引退の報告会を実施した時にビデオメッセージを贈ったそうである。
色々なところから昔の画像や映像を探してきて、さらに加賀山に関わってきた関係者からビデオレターをもらった。2003年のBSBでの大事故の際に親身になって手助けてしてくれたポール・デニングさんからもメッセージをもらっていた。決して口には出さないがこの時も絶対に泣いたはずである。
加賀山は誰からも愛される。
本人は「大したライダーじゃない。リザルトがそれを証明している」と言うが、結果だけがその人の判断基準ではない。人間としての魅力がなければ誰もついていかない。
引退セレモニーで労をねぎらうためにあれだけ多くのライダーが集まったことが加賀山の人間性を表している。
全日本ロードレースの最前線から身を引くのは寂しいが、日本のレース界を盛り上げるための加賀山のこれからの活動に期待したいし、みんなで応援したい。
「一樹があまりにもだらしなかったら自分が走るかもしれない(笑)」と冗談めいて言った。もしかしたら走るかもしれない。そんな期待を抱いてしまうのも加賀山就臣だからこそである。
Photo & text:Toshiyuki KOMAI