「自分の今年の鈴鹿8耐の仕事は終わった」2024年鈴鹿8耐の第1スティントを走り終えて高橋巧はそう思ったそうである。2番手に10秒以上の差をつけてライダーチェンジ。
結果はホンダワークス:Team HRCが圧倒的な強さで3連覇を飾った。ホンダにとって鈴鹿8耐30勝目、そして高橋は個人で6勝目を挙げる新記録を達成した。
このワークスチームをエースとして牽引したのが高橋巧だ。冒頭の思いはどこから来たのか。鈴鹿8耐から約1ヶ月後の全日本ロードレース第5戦もてぎで改めて聞いてみた。
ゼロベースからのマシン作り
高橋は今年、鈴鹿8耐でHRC とワークス契約をした。当然マシン開発も含まれる。HRCはワールドスーパーバイクのテコ入れが急務のため新型を投入、それが鈴鹿8耐マシンのベースとなる。そこにはピレリタイヤとブリヂストンタイヤの違いがあり、長島哲太が2年かけて作ったモデルからキャラクターが変わった。ゼロベースからスタートした2024モデル。プライベートテストで走り込み、主にしなやかさと剛性のバランスに重点を置いた。理想とするオートバイの動きの実現に向けてHRCと共に開発を続けたが走行時間が圧倒的に少なかった。それでもなんとか方向性を見つけることができた。
二人のためのテスト
迎えた6月4日・5日に開催されたメーカー合同テスト。その直前にTeam HRCのライダーラインアップが発表された。ヨハン・ザルコ。CASTROL Honda LCR所属の現役MotoGPライダー。もう一人は名越哲平。ハルクプロ(SDG Honda Racing)所属からワークスチームに加入した。
メーカー合同テストにザルコは来なかったが高橋と名越が走り込む。名越にとって初めてのワークスマシン。「めちゃくちゃ緊張しました。朝起きてサーキットに行くのが嫌なくらい。だけどマシンに乗り込むと緊張感がほぐれました。巧さんが察してか、イジリながらチーム内に溶け込むようにしてくれました。また、ワークスマシンに乗ることでハルクのマシンとの違い・改善点が見えました」
ひたすらロングランをやって走り込んだ。この名越の進化が鈴鹿8耐優勝のピースを埋める大事な役割となった。
高橋はマシンの仕上がり具合を確かめるためにも積極的に走り込んだ。
6月19日・20日に開催された鈴鹿サーキット主催合同テスト。ザルコはこのテストから合流した。
初めての鈴鹿、初めての耐久マシン、そして初めてのブリヂストンタイヤ。全てが初体験のザルコは高橋の走りを吸収するために走り込んだ。「6月のメーカーテストでは自分は十分に走り込みましたので今回はザルコと哲平に慣れてもらうために走行時間を割きました」
一発のタイムには興味がない
DUCATI Team KAGAYAMAやYART YAMAHAが5秒台をマークする中、HRCのベストタイムは2:06.385の総合4番手。今年のHRCの戦闘力を疑問視する雰囲気もあった。しかし高橋は意に介さない。「一発のタイムには興味はありません。鈴鹿8耐は総合力。アベレージタイムを上げることのほうが大切です」
だからこそザルコと名越に走り込ませた。レースウィークに入ってもそのスタンスは変わらない。「ポールポジションが大きな意味を持つなら狙いますが、そこまで意味はないと思っています。賞金が何百万円も出るなら狙いますけどね(笑)」
フルパワーでは一度も走っていない
「(マシン開発は)当然タイムも見ますがアベレージがメインです。当初からワンスティント走れるくらいに絞った状態で走っていたのでテストからレースウィークまで1回もフルパワーで走ったことはないです」
予選も?と聞くと「はい。トップ10トライアルは多少ストレートが走るようにしましたが基本は決勝レースで走るのがベースです」
フルパワーにしたらポールや(2分)4秒台も狙えたのだろうか?
「予選用に仕上げれば狙えたと思いますが車体を含めセッティングが変わってしまうのでそれがイヤでした。全ては決勝に向けた準備をしていました」
あくまでもアベレージを刻むことが大切。
ザルコに妥協してもらった
鈴鹿8耐は3人のライダーで1台のマシンに乗り込む。マシンセッティングの好みやライディングポジションは三者三様。それらを全て聞き入れていたらまとまらない。
「自分のタイムを超えたら好きにマシンをいじって良いよ」高橋は二人にそう伝えた。3人の中では高橋のアベレージタイムが一番速い。その基準タイムを超えたらHRCもその方向を認めるだろう。だが二人とも高橋のセッティングが正しいと理解していた。
特にザルコはスタイルも乗り方も違うが妥協してもらったと言う。MotoGPの深いブレーキングで突っ込むスタイルが染み付いていたがそれだとコーナリング速度が落ちてしまう。
「自分がザルコに合わせることもできましたが耐久レースですので燃費を考えるとアクセル開度のアップダウンの波がなるべく滑らかにフラットになるように走るのが良いですし、そう言う方向性でマシンを作ってきました。ザルコに少し妥協してもらったのでセッティングに関してはほとんどいじっていないです」
頑張らないで走る?
高橋は今年の鈴鹿8耐はものすごく暑くなると予想していた。だから暑い中で走り込み、運動を続けて体力作りをしっかりとやっていた。モニターに映る走行後の表情が疲れていないように見えたのはその効果だろう。実際一番キツイと言われている第1スティントが終わった後に「わりと楽だったな、余裕があったな」と感じたそうだ。
そう感じさせたのはフィジカル面だけではない。“如何に頑張らずにタイムを出すか”だと言う。頑張らずにと言うと語弊があるがスムーズに走らせる、体力を絞り切って走らずどこか余力を残して走ると言うことだ。そうでないと8時間保たない。
名越が高橋から「ロングランを何%のチカラで走っているの?」と聞かれて「90〜100%です」と答えた。「それじゃ最後まで保たない。自分は60%前後で走っている。その中で如何にタイムを落とさずに安定したアベレージを刻めるか、を常に考えながら走っている」と答えた。
耐久レースはブレーキ摩耗も考えなくてはならない。深いブレーキングで突っ込まずコーナリングスピードを上げて立ち上がりで早く開ける。データで見ると名越やザルコはVの字が多いが、高橋はほぼフラット。
「タイヤもそうですが、ブレーキパッドの摩耗も我々とは全然違いました。車両を労りながら走る、全部に優しい耐久スペシャリストだと思います」と名越。
余裕を持って走れるくらいのマージンを作りたかった
決勝レース。スタートライダーは高橋。近年の鈴鹿8耐は序盤の1時間で流れが決まると言っても過言ではない。その大切なスタートライダーを高橋は3年間連続で担っている。それほどチームからの信頼が厚い。
予想通りYART YAMAHAのニッコロ・カネパがトップに立つ。高橋は2番手。そこにスタートで出遅れた水野(DUCATI Team KAGAYAMA)が猛追して来た。ストレートの速さを活かして高橋、カネパをパスするとトップに浮上。すると水野とカネパがやり合い出した。
ここに絡むのは危ないと思った高橋は後ろから様子を見ることにした。
「前の二人のペースが思ったより上がらない」「だったら自分が前に出て引っ張ろう」と考えた高橋は10周目のホームストレートで水野をパス、さらにバックストレートでカネパをパスしてトップに浮上する。すると一気にギアチェンジして2:07.378、2:07.503、2:07.866と2分7秒台を連発。2番手以下に10秒以上のアドバンテージを築き27周目にザルコにバトンタッチした。
「第1スティントの重要性はどのチームも認識しているので集中しました。ここで僅差だと後半まで気を抜けないので疲労度も違います」
酷暑の中、後続との差をコントロールしながら走行
ザルコ、名越の好走によりトップをキープしたまま14時28分、82周目に高橋へライダーチェンジ、2回目の走行。
「中盤以降はサインボードで後続との差を確認しながらコントロールして走りました」。
高橋が走ったこのスティントは最も暑い時間帯。そこでコントロールなどできるのだろうか。
「(2分)7秒台を出す必要はなかったです。2分8秒5を自分の目標アベレージに設定して走っていました。その時間帯は気温も路温も高くタイヤの減り出しも早かったのでなるべくタイヤを温存させながらアベレージを刻んでいました。半分くらい走った時にバックマーカーにひっかからかないタイミングがあり7秒台が出ました」
結局このスティントでは33秒の差を広げて15時27分、109周目にザルコにバトンを渡す。
ラスト5分で40秒ペナルティが科される
高橋、ザルコ、名越の完璧なバトンリレーで繋いできたが最後のスティントで波乱が生じる。残り時間20分となる19時8分、ザルコが最後のスティントを終えピットイン、燃料を足すだけのスプラッシュ・アンド・ゴーで高橋にライダーチェンジして出ていく。この時の2番手YART YAMAHAカレル・ハニカとの差:48秒449。YARTのピットインは終わっている。この後何もなければほぼHRCの優勝は確実だと思われていた。
だが19時13分、衝撃的なテロップが画面に流れる。「#30 ピットストップについて審議中」 サーキットが一気に騒つく。「一体何があった?」
高橋は知る由もなく暗闇が迫る中2分8秒から9秒台で周回を重ねる。残り10分の時点で52秒768まで差を広げていた。
そしてゴールまであと5分の19時25分「#30 レース結果に40秒加算のペナルティ」が科された。この時の差は51秒708。ここでYARTは9秒台でプッシュする。
「急に後続との差が縮まったので何が起きたのかわかりませんでした。間違えて隣のチームのサインボードを見たのかなと思いました」
「表示されたのが残り5分。1周で7秒も8秒も縮まることは無いと思いましたのでマイペースで転ばないように心がけました」
しかし最終ラップのヘアピンで腕章を踏んであわや転倒の場面を経験する。
「黄色の腕章は前の周で確認していました。この周でチェッカーだと確信して安全に走ろうと思ったら忘れてしまいました。気を抜いていたわけではないのですがヘアピン進入する直前にヤバイ、と思ってマシンを起こしたけど腕章に乗ってしまいました。マシンを寝かしたまま乗っていたら転倒するところでした」
わずか7.8秒差で優勝
スタートしてから8時間、高橋はスプーンカーブで8時間を迎える。そして220周という前人未到の記録を打ち立てて栄光のチェッカーを受ける。
カレル・ハニカは最後までプッシュし続けて48秒後にチェッカー。40秒ペナルティ加算で7秒860と言うスプリントレース並みの僅差となった。
大切な第1スティント
Team HRC3連覇、ホンダ30勝目のプレッシャーはあったのか?改めて聞いてみた。
「レースが始まる前と始まってからでは当然状況が変わります。特に意識したのは第1スティント。そこでどれだけ余裕を持たせられるかでその後の展開が変わってきます」
「僅差のままで終わると最後まで気を抜けない。力みや焦りを産む要因にもなり得ます。第1スティントが終わった段階で10秒以上のアドバンテージを築けた。これは大きかったです」
「ザルコと哲平が余裕を持って走れるくらいのマージンを作りたかった。あとはマシンに何もなければ勝てそうだな、という予感はありました」
ここで冒頭の「これで自分の今年の鈴鹿8耐の仕事は終わった」が頭をよぎったのである。
そこには高橋がゼロから作り上げたマシンの完成度、耐久スペシャリストと呼ばれる無駄のない走り、ザルコ、名越のアベレージタイムの高さ、高橋が築き上げてきたチームとの信頼関係、さまざまな要素が掛け合わさってできたものであることは言うまでもない。
今年の鈴鹿8耐の上位4チームの平均ラップタイムを出してみた(手元集計、アウトラップを除く)。
Team HRCが安定して速いのが見て取れる。驚くことに高橋は「アベレージタイムをもう少し上げられる余裕はありました」と言う。
名越は「体力がいくらある人でもあの暑さの中であのハイペースで走ることはできない。バイクのコントロールに無駄なものを使っていない。タイムを落とさないで走る技術を持っている巧さんだからこそだと思います」とコメントしたのも頷ける。
考えて走るライダーになって欲しい
高橋は積極的にアドバイスしたり口出しするタイプではない。寡黙かと言えばそれも少し違う。
「最近は考えないで走るライダーが増えてきた気がします。こうすれば良いよと答えを先に言ってしまうと言われたことだけをやるライダーになってしまう。それではいけないと思います。自分で散々考え抜いた上で走らないと本人の身につかない。だから聞いてきたら答えるようにしています」
ザルコに対しても同じだった。
「破天荒なライダーだと思っていたら(笑)真面目なライダーでした。
鈴鹿8耐というレースをしっかり勉強していました。一発のタイムを狙いたかったと思うけど、重要なのは違うポイントということも理解していました。
初めての鈴鹿を解決しようと思って考えながら走っていました。だからこっちから何か言うより聞かれたら答えるようにしていました」
ここからが未知への挑戦
個人として6回目の優勝と言う新記録を作った。
「嬉しいです。抜かれない限り記録として残るけどこれでレースを止めるわけではありません。ここは通過点、ここからが未知の挑戦。これからも記録に挑戦したいです」
「目立ちたくないわけではないです。優勝すれば結果的に目立ちます。ただそこまでの過程はあまり重視していません。結果が全てですから」
高橋は口数が少なく自ら先頭に立って物事を引っ張っていくタイプではないが、黙々とタスクをこなすプロフェッショナルな姿勢に誰もが納得してついて行く。今年のホンダワークスのエースライダーはこうやってチームを牽引し、優勝に導いた。
「だけど鈴鹿8耐は嫌いです(笑)。あそこまで過酷なレースはありません」
いかにも高橋らしいコメントである。
text:Toshiyuki KOMAI
Photo:水谷たかひと