Mishina’s Eye Vol.2

こんにちは! Mishina’s Eye 第2回です。前回の予告通りに1982年に後楽園球場で行われた第1回ジャパン・スーパークロスの記憶を辿って行こうと思います。

何とかパスを入手できることになりワクワク感いっぱいでその日を待っていたある日、「どうせ見に来るなら場内放送やってね」ってにこやかな声でMFJのK氏だったかO氏だったかT氏だったか忘れたが連絡が入る。当初、スタジアムに来る日本人観客のための放送は考えられていなかったようです。場内放送が必要だったらアメリカから選手たちとともにくるスーパーマウスことラリー・ハフマン氏が英語でしゃべれば良いという感じだったらしい。度重なる主催・運営サイドの会議の中で、来場する日本人観客にはテレビ中継用ではなく日本語の放送が必要とMFJサイドが提言し、その結果が私への連絡だったようです。観客がスタジアムに入るのは23日のみ。だから場内放送も23日だけ。

 

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私は21日にスタジアム入りし挨拶もそこそこにグランドへ。普段野球はほとんど見ないのですが、小学生のころ親戚のおじさんに連れられて1、2度、後楽園球場のバックネット裏から見たことがあります。「唖然、ただただ唖然」その一言です。そこはもはや野球場ではありません。鈴鹿や菅生で見たのもとは比べ物にならないくらい大きな山が繋がった4連ジャンプ、小さなコブが連続したウォッシュボード、コーナーに盛られた壁のようなバンク、巨大な山の立体交差、いや〜な所に小ぶりなジャンプが多数設けられていて、ここを走るの??? 障害物競走??? え、うそ〜、マジで? ライダーたちが走る姿を想像することすらできなかった。翌22日の朝、球場内の一室で打ち合わせのためラリー・ハフマン氏と対面しました。彼は日本人でスーパークロスを喋れる奴はいないだろうから、全て自分がやるつもりでいたようです。もちろんフジTVの中継番組はフジTVの野崎アナウンサーが担当。そして決勝の選手紹介は番組構成上、ラリー・ハフマン氏の英語が必要とのことでした。ひとまずハフマン氏と私は交代交代で場内放送を喋りましょうということに。そして練習走行が始まるのでグランドへ。アメリカンライダーたちは生き生きと大きなジャンプを飛び出した。コースサイドで見ていると彼らがジャンプするたび、高層ビルのてっぺんを見上げるよう。ウォッシュボードも頭の位置がほとんど動かずコブの頂点を舐めるように進んでいく。一方、こんなコース初めての日本人ライダー、といっても日本を代表するトップライダーたちは、最初は恐る恐るジャンプを舐めるように。そして4連ジャンプの手前で止まって、アメリカンのジャンプを観察。手前のコーナー立ち上がりで思い切ってアクセルをあけて最初の山に向かっていくが、恐怖からか直前でアクセルを戻し、うまく飛べない。根性でアクセルを開けて行っても、着地でバランスを崩したり、次の山にぶつかってもんどりうってコースアウトしてしまう。どうしても飛べないベテランの鈴木秀明選手は自分よりもずーっと年下のアメリカンライダーに、ジャンプの飛び方を教えてくださいと頭を下げたそうだ。「アクセル全開で行っても飛べない・・・」すると答えは「全開で行くなんてクレイジー・・・」根性や気合ではクリアできないスーパークロスのジャンプだった。

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そして23日の本番日、フジTVの中継スタッフはバックネット裏のフジTVの野球中継用ブースへ。場内放送の私は、午前中の練習走行をコースサイドで見て、観客が会場内に入るちょっと前に大会後援のニッポン放送の野球中継用ブースに入った。13時45分にファンファーレとともに始まったオープニングセレモニー。開会宣言を行ったハフマン氏は予選ヒートが始まるころにブースへやってきた。狭いブース席の中央にハフマン夫人が座り周回表をつける。その左右に私とハフマン氏が座りマイクを持っている。コンピュータもTV中継のモニタもなく、情報といえば夫人のつける周回表以外は自分の目で見たものが全て。ハフマン氏は、最初にお前が喋れと私に合図してくれた。スタートのカウントダウンが始まる。私の緊張は最高潮に。果たして喋れるのだろうか?

当時鈴鹿などのモトクロス場で使われていたスターティングゲートは、比較的低い位置で横一線に繋がった鉄パイプが前方に倒れる仕組みで、フライングしても倒れていくゲートを乗り越えて1コーナーに進むことができた。でもスーパークロスではスタート地点に並ぶマシンごとに、前輪よりも高い位置まで逆U字型のパイプでゲートは作られ、それがマシン側に倒れてくるのでフライングをすると倒れてくるゲートが前輪に引っかかってしまいスタートできない仕組みになっていた。

さて、スターティングゲートが倒れ、予選ヒートのスタートとともに「オーッ!!!」という大歓声がスタジアム全体を揺るがせた。その時どんな言葉を私が発したか、正直言って、全く覚えていない。覚えているのは、1周回ったあたりでハフマン氏に目配せ。ハフマン氏も心得たとばかり喋りだした。そしてハフマン氏からのアイコンタクトを受け、喋りだす私。もう一度ハフマン氏を見る。スーパーマウスと言われる彼の口から溢れ出る言葉。もちろんハフマン氏は英語、私は日本語。お互い喋っている言葉は分からないが伝えようとする気持ちは良くわかった。予選ヒート1が終わり、ハフマン氏は私に向かって右手の親指を立るサムアップのポーズとともに、「OK! あとは任せた」とでも言うように笑顔でブースを後にしてしまった。ブースに残されたハフマン夫人は最後まで私の隣で周回表を書き続けてくれた。ハフマン氏がブースに戻ってきたのはTV中継用にブースがカメラに映される決勝レースの選手紹介の時だけで、決勝ヒートもコースサイドで見守っていた。

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コースのいたるところで日本人ライダーが果敢にジャンプに挑戦し、もんどりうってコースアウト。でも彼らはその度にマシンを起こし走り続ける。4連ジャンプの手前でマシンを止め、息を整え、目の前の壁に向かって行く。4連ジャンプ前の座席にいる観客もそんな彼のチャレンジ精神、ファイティング・スピリッツを掻き立てるように回ってくる度に声援を送っている。観客の声に後押しされジャンプに挑んではもんどりうつ。彼の名前は奥村勝昭選手。私は4連ジャンプ前だけでなくほかの座席の人にも、その挑戦に注目してもらいたくて、彼が今コースのどこを走っていて、もうすぐ4連に行くよってことをずーっと喋っていたような気がする。1周ごと彼のチャレンジに送られる声援が大きくなり、ついにはスタジアム全体を包み込んでいった。私がレースを盛り上げたのではありません。一所懸命な姿を見せつけてくれた奥村選手、そして彼が挑戦できるように声援を送ってくれた観客の熱い気持ちに、私が釘付けにされただけ。そしてそれを他の観客と共有したいと思っただけなのです。ひょっとしたら奥村選手は途中で飛ぶのをやめたかったのかも知れません。ただでさえハードな走行に加え、普段の何十倍も転倒を繰り返し、とっくに体力の限界は超えていたのかもしれません。でも注目され、大歓声を受け、場内放送であおられて(たぶん聞こえていないと思う)、辞めるに辞められない状況だったのかも。

後楽園球場の第1回ジャパン・スーパークロスを征したのはヤマハの新鋭、18歳のリック・ジョンソン選手でした。前日のタイム計測でも1番時計で絶好調でした。鈴木秀明選手が頭を下げて教えを乞うたというライダーです。確かスーパークロス初勝利だったと記憶しています。その後の彼の活躍は目を見張るものがありました。

私はこの後楽園ジャパン・スーパークロスは、上手に実況することができたかどうかよりも、「コースと観客席をひとつの世界にできたら・・・」という、私が思い描いた場内放送の望ましい姿として間違っていなかったと、再認識できたレースでした。ただ、スーパークロスはショー的要素がとても強いレースなので、それが実現できたのかもしれません。

さぁて次回はどの大会にしようか、正直迷ってます(^^);
もし「あのレースってどうだったの?」なんてリクエストいただけたら記憶の扉をこじ開けてみます。あっ、私が現場に行っていたものならばですが(^^)
いずれにしても、記憶を引き寄せる糸口としてその時の自分の資料を探さなくては。ではまたお会いしましょう!